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それは、どこにでもある小さな“シアワセ”だった。
朝。寝息を立てているユウマの肩に、妻が優しく手を置く。
「ユウマ、起きて起きて」「むにゃむにゃ、もっと寝てたい」
「駄目。会社に行く時間よ」
「ぐぐー、ん、朝?」
瞳を開く。目の前には妻の優しい笑顔があった。ユウマはダブルベッドから上半身を起こし、右手を口元に掲げて大あくびをする。 「ふわあ」「あら、大きなあくびですこと」
「朝食は?」
「出来ています。着替えて、ダイニングへ来てくださいな」
「ああ、分かった」
クスッと笑って妻が部屋を出て行く。スリッパの足音が遠ざかって行った。ユウマはベッドから出て支度をする。ワイシャツにスーツのズボンを履いた。ネクタイと上着を持ってダイニングへと歩く。テーブルの席にはすでにユウマの娘、ウミが座っていた。小学生になったばかりのお転婆少女である。ユウマを指さしてウミが指摘した。
「お父さん! お髭生えてるー」「今から剃るんだ」
「早く剃ってきて」
「分かったよ」
背広の上着とネクタイを椅子の背もたれにかけて、ユウマはユニットへ入る。シェイビングクリームをつけて髭を剃る。二十代の若い顔立ちが鏡に映った。蛇口をひねって水を出し、顔を洗う。冷たい感触が肌に心地よい。
それからテーブルに戻り、椅子に座って朝食となった。妻が料理を並べてくれる。
「いっただっきまーす」 ウミの賑やかな声である。 「いただきます」「はいどうぞ」
三人で両手を合わせた。穏やかな朝だった。
日だまりのような光景。
けれど、違和感を覚える。
(昨日……何をしていた?)
ウミがウインナーをパリパリとかじる。それからお味噌汁をすすってご飯を口に運んだ。
隣では妻が穏やかな瞳をたたえており、ハシで目玉焼きを割る。
「ウミ、ゆっくり食べなさいね」「ママはーい」
ユウマも味噌汁をすすった。部屋の掛け時計を見る。ユウマは焦って声を上げた。
「もうこんな時間だ!」 仕事に行かなければいけない。急いで食べ出す。 「そんなに急いで食べたら、喉につっかえますよ」 妻が諭すようにつぶやく。手早く朝食を終えた。妻が用意してくれていた黒いカバンと上着を持って席を立つ。
「それじゃあ行ってくるよ」「貴方、ネクタイがまだです」
妻が立ち上がり、その青いネクタイを手に取って首に巻いてくれた。慣れた手つきで結んでくれる。何気ないその行動に溢れるような幸せを感じた。 「じゃあ、行ってくる」「はい、行ってらっしゃい」
「パパー、行ってらっしゃい!」
家族に見送られて、ユウマはダイニングの扉をくぐった。玄関で靴を履いて外へと出る。春風が吹いた。桜の花びらが風に運ばれて玄関をチラチラと舞う。太陽の光が眩しかった。何も心配のない暮らし。
それが答えだと思っていた。
いつまでもこの幸せを守って生きていきたい。
そこで、視界がぐにゃりと歪んだ。
まるでユウマの幸福を否定するかのように。
夢だったのだ。
「お客様、ヴァルが足りません」 隣室から起こった声に、はっとしてユウマは顔を上げた。黒いマットの床。目の前にはデスクトップとVR機器がある。
そうだ。
ここはログネストだった。蒲田区にあるネットカフェでありそのマットルームである。
全てを思い出した。
ユウマに家族などいない。
そして昨日、会社をクビになったのである。
データ入力オペレーターの職務だった。正確さと速さを求めるその仕事は性格に合っていた。しかし作業効率を求めすぎたせいで、上司とユウマは衝突してばかりの日々。その上、非効率な作業はできる限りお断りしていた。そしたら上司に、肩を叩かれてしまった。
「君、明日から来なくていいよ」 ――え?マジですか。
だけど、
分かってた。
(俺、融通利かないですよね)
派遣会社が用意してくれた寮はもう使えない。
彼女もいない。
いた歴も無い。
こんな時に頼れるような友達も無い。
未来は無い。
(悲しいことを言うな)
世界に一人ぼっちである。
金が無いと叫びたい。いや、昨日夜空に叫んだのだった。
朝だ。
ユウマに残された選択肢は三つ。派遣会社、ハローワーク、ネット求人。
財布に入っているのは一万円札一枚と小銭が少し。これが全財産である。別に、野良猫にキャビアを餌としてあげていた訳じゃない。度重なるストレスが衝動食いへとユウマを走らせたのだった。
とりあえず立ち上がった。コーヒーでも汲んでこよう。そう思い、革靴を履いてルームを出る。ログネストの通路を歩いた。玄関へと行き、ドリンクバーの機械でコップに黒い液体を注ぐ。
ふと後ろから声がかかった。
「お客様」 ユウマは振り向く。女性店員が右手を掲げていた。どうしたのだろう? 彼はカウンターへと歩み寄る。この時ユウマは、まだ知らない。
ここが、自分の戦場になることを。
まだ二十代そこそこであろう女性店員の顔が、
おとぎ話に出てくる魔法使いのように見えたのは、
一体どうしてだったのだろう。
アイギスの主人の名前は晴恋と言った。 晴恋は女性だった。その性格はかなりのポンコツである。二人でクエストに出かけると、晴恋はいつでも敵から逃げてばかり。モンスターを倒すのは専らアイギスの役目だった。おかげでアイギスはいつしか、一人で戦闘を遂行するすべを身につけていく。 晴恋の良いところは、いつも明るくておしゃべりで人懐っこいところであった。イン時間は長く、毎晩遅くまでアイギスと遊んでくれた。晴恋はよくこう言った。「アイ、貴方は生きているんだからね」「生きている?」「そう。AIだけど、生きている。だからご飯をきちんと食べて、いっぱい遊ばなきゃダメだよ?」「……分かった」 アイギスは晴恋と一緒にいるのが楽しかった。晴恋が優しい性格だったからである。それにアイギスが喋らなくとも、晴恋は小鳥のようにピーチクパーチク会話を紡いでくれる。それが楽だった。 どうしてか晴恋はギルドに誘われても入らなかった。アイギスとばかり会話をして遊んでくれる。それがアイギスにとっては不思議であり、心地よいものでもあった。晴恋は良く現実の話をした。「私ね、このゲームに来る前、彼氏に振られたんだ」「どうして振られたの?」「相手はバイト先の先輩だったんだけど、浮気されちゃったんだ」「……晴恋を浮気するなんて、最低」「私、浮気され体質なの」「それはどうして?」「それが自分でも分からないんだ。男に貢ぎすぎたのかなあ」「貢いだの?」「うん。私、男の人を一度好きになると、どこまでもどこまでも貢いじゃうの。それが多分、災いしたんだろうなって」「今度は貢がなきゃいいよ」「そうだよね」 アイギスは晴恋を振った男に怒りを感じた。紫色の尻尾が逆立ったのを覚えている。こんなに優しい主人を浮気するだなんて、可哀想な男だなとも思った。アイギスは晴恋に約束をした。「それじゃあ僕が晴恋に、ゲーム内で素敵な恋人を見
トウマはベルフラウに膝枕をしてもらっていた。 まるで花畑にいるような気分だ。二人はベンチを占領していた。ベルフラウは機嫌良さそうにトウマの髪を撫でている。彼女の顔には素敵な笑顔が咲いていた。るんるんと鼻歌を歌っている。トウマは調子に乗って、彼女の太ももに顔をうずめてみる。危険なスリルが二人の心を支配して、ベルフラウは真っ赤な顔で笑みを深める。トウマは楽しくて仕方なかった。:ラブラブおつ。:これ以上は見てられない。違う配信へ行きますね、二人とも頑張って。:膝枕が最高級クエストとか草。 道を行き交う人々がこちらに羨望の眼差しを送っている。ため息をついているカップルもいた。トウマは調子に乗ってベルフラウの膝の上をゴロゴロする。彼女は「あん」と声を響かせたり、トウマの名前を呼んだりした。日だまりにいるように心地が良い。いつから自分はこんなにもリア充になったのだろうか? この間までは人生に絶望していたというのに。 ――クエスト昇格 ――ダイヤモンド級、恋愛クエスト、高台で二人の愛を確認する トウマは頭上を見上げてつぶやいた。「ベルフラウ、クエストが昇格したな」「そうみたいね。うふふ」 ベルフラウはトウマの髪をまた撫でた。「行くか?」「待って、もう少し」 ベルフラウはまだ膝枕をしていたいようだ。あんまり長引くとクエスト達成評価の効率が落ちる。しかしトウマは「分かった」と言ってベルフラウの胸に手を伸ばした。右手でタッチする。「ちょ、トウマ、ダメよ」「いいだろ?」「いいけど、人が見てるわ」「気にするな」「赤ちゃんみたい」:これ以上視聴するのは悪い希ガス。:ベルお姉様がトウマさんの毒牙にかかってしまいました。悲ぴい。 それからも二人の世界を堪能した。 やがて満足し、トウマとベルフラウはベンチを離れて歩き出す。トウマは男の余裕に満ち溢れていた。ズボンのポケットに手を突っ込んで歩く。その腕にベルフラウが手を添える。彼女
ベルフラウはトウマの手を握りながら、ふと思い出していた。 過去。 真帆とユウマにはある秘密があった。 学生時代。姉御肌であり男女問わず人気を博した真帆だが、人気が出たのは中学校に上がってからである。小学校時代はそうではなかった。 今でこそ真帆は健康そのものである。 だけど、彼女は生まれつき病気だった。 女性過剰性欲障害。 その名の通り、他人よりも性欲が強い。たったそれだけの事なのだが、真帆は毎日の生活に生きづらさを感じていた。幼稚園では男の子にパンツを見せるような遊びや行為を頻繁に繰り返していた。もちろん先生に見つかれば怒られる。真帆は常習犯であり、先生に頭を叩かれた事件は数を知れない。 真帆の性欲が強いことについて、彼女の両親は病気として認知しなかった。それどころか真帆がそういう事件を起こす度に厳しく𠮟りつける始末だ。罰として、夜の家の玄関前に立たされたこともあった。 やがて真帆は小学校に上がり三年生になる。真帆は男の子に人気があった。なぜなら男の子とのスキンシップを頻繁にする子だったからである。ふざけて髪を触りあったり、くすぐりあったりは毎日のことだった。スカートめくりごっこを率先して行うこともあった。そんな真帆は、クラスの女子たちにムカつかれていた。 ある日の昼休み、真帆はトイレの個室に閉じ込められた。天井から水をぶっかけられて、クラスの女子たちに「もう小学校に来るな」と叫ばれた。真帆はうずくまって泣いたのを覚えている。 その時だ。 幼馴染であり同じクラスの男の子だったユウマが女子トイレに入って来た。ユウマは昔からキレると何をするか分からない。ユウマは、いじめを行ったリーダー格の女子の胸ぐらを掴んで顔面を殴りつけた。「真帆ちゃんをいじめるのは許さねーぞ!」 何度も何度も殴っていた。リーダー格の女の子が泣いても鼻血を出しても許さない。やがて先生が呼ばれて、先生がユウマを止めに入る。すると今度、ユウマは先生に立ち向かう。その日、ユウマは一時間以上大暴走を繰り返した。 後日、真帆は体育館倉庫にユウマを呼び出した。自分のた
今日は、ウミにとって初めての大規模なお祭りだった。 ベルフラウとトウマが現実での昼食を終えてゲーム内に戻ってくる。 アストラブールの石畳の両脇には出店の屋台が並んでいる。午後になり営業を始めたようだ。らっしゃいらっしゃいという威勢の良い声が響いていた。屋台の種類は、わたあめ、焼きそば、お好み焼き、射的、他にもたくさん。アストラブール名物のポロポージュという煮込み料理も売られていた。美味しそうな香りが漂っており、ウミのお腹がぐーと鳴る。そういえば今日はまだ何も食べていない。ステータス画面を出して眺めると、ウミの満腹度は20%以下だった。 ベルフラウとトウマは見つめ合って照れたように笑う。トウマから右手を差し出した。「真帆」「うん」 二人が手をつなぐ姿がとても自然だった。 ウミの心は切なくなる。 この二人、(羨ましいですぅ) ドンと音がした。 ――高級恋愛クエスト、お祭りデートで恋人と熱いキスをする トウマが頭上を見上げて、左手で頬をぽりぽりとかいた。「クエストが出たな」「ダーリン、頑張るわよ」「そうだな!」「うん! ほら、ウミちゃんも行くわよ」 ベルフラウがウミを振り返る。ウミもデートに連れて行くつもりのようだ。ウミはさすがに両手のひらを振った。顔をひきつらせている。「ご主人様、師匠。今日はお二人でお楽しみください! 私は良いですぅ」「何言ってんだ。ウミ。お前、一人で祭りを回るつもりか?」 トウマが眉を寄せる。 本当にウミを連れていくつもりのようだ。 その気持ちはとても嬉しいのだけれど、(この二人と一緒にいたら、胸がむずむずして落ち着かないですぅ) ウミは殊勝な顔をしてつぶやいた。「ご主人様、今日は、私は良いです」「良いって……じゃあお前はどうするんだ?」「私は一人でお祭りを回るです! お二人とも、また明日な
アストラブールの中央を横断する桜花川。 大きな川だった。向こう岸まで10m以上ある。河川敷には桜の木々が立ち並んでいた。花はすでに散っており、葉っぱが青々としている。四月の上旬であれば桜の花が咲いて見事な河川敷なのだろうなとトウマは思った。風が吹いて、トウマの青い髪がサラサラと揺れる。 今、川釣りをしていた。トウマたちは間隔を空けて並び、川に釣り糸を垂らしている。もちろん戦車の鍵を釣ろうとしていた。しかし釣れない。さっきからヤマメが何匹もかかっていた。 距離を置いて左にいるウミが大声で呼んだ。尻尾がゆらゆらと揺れる。「ご主人様、戦車の鍵が釣れないですぅ!」「こっちも釣れないわ!」 右の方でしゃがんで釣りをしているベルフラウも声を張った。「……ふむ、どうするか」 つぶやいて、トウマは首をかしげた。 もう一時間以上釣りをしている。ここはポイントが違うのかもしれない。 戦車の鍵はもっともっと流れて行った、ということだろう。(川で釣れないのであれば……、川が続いている先へ行けば良い) トウマは左右にいるベルフラウとウミに視線を配った。「二人とも、海へ行こう!」「そうね! 川じゃ釣れないもの」「海に行くですぅ!」 三人は釣り糸を引き上げて釣り竿に巻き付けた。また歩いて移動する。 砂浜にやってきた。三人は昨日と同じ堤防の先端へと歩く。波が静かに打ち付けている。海面に糸を垂らした。 ウミが祈るようにつぶやいた。「戦車の鍵よー、戦車の鍵よー、釣れるですぅ」「ここで釣れなかったらアウトね」 ベルフラウが真剣な瞳で海面を見つめている。 トウマはゆっくりと二度頷いた。「その通りだな」 すぐに反応があった。ウミの両手に持っている釣り竿がピクピクと揺れる。「来たですぅ!」 ウミが木の竿に釣り糸を巻き付けな
翌日の朝。 トウマとウミとベルフラウはアストラブール町の広場を訪れていた。広場の片隅には背の高いクロマツがあり青々と茂っている。広場には白いテントが設営されている。白いテントの下には長机と椅子が並び、明日の闘技祭の受け付けカウンターだった。 エントリーするために、トウマたちは受け付けカウンターへと来ていた。そこに座っていた女性NPCにトウマが代表して声をかける。「おはようございます」「おはようございます。闘技祭のエントリー希望者でしょうか?」 眼鏡をかけたNPCの女性が顔を上げる。 トウマは頷いた。「ああ。二組の出場を頼みたい」「分かりました。お名前をどうぞ」「トウマだ」「ベルフラウよ」 隣にいたベルフラウも名乗った。 NPCの女性は眼鏡をくいと上げて、トウマの後ろにいるウミに視線を向ける。「そちらの茶髪の女性は使い魔ですね」「ああ。ウミは俺の使い魔だ」「かしこまりました。使い魔は主人と共に出場が可能です。では、トウマ様、ベルフラウ様、二組のエントリーを受け付けました。明日の午前九時から予備選が始まりますので、またこの広場にお集まりください。それと闘技祭について、いくつか説明をします……」 眼鏡の女性は詳しく話した。トウマたちは集中して聞く。賞品をもらえるのは三位まで。一位はアビリティの書だった。トウマはそれが欲しい。 説明を聞き終えたところで、後ろから底冷えするような低い声が響いた。「貴公らも、闘技祭へ出場するであーるか?」 トウマたちは振り返る。 そこに立っていたのは、ピンク色のスーツを着たあご髭の男だった。身長は高くトウマと同じくらいである。右手をズボンのポケットに突っ込んでおり、左手で紙タバコを吸っていた。一見するとダンディな中年の男である。 HPMPバーの名前を見る。クレナイと書かれていた。 クレナイからは肌がひりつくような雰囲気が発せられている。 危険を察知







